関川夏央、『一九六九年に二十歳であること--『ニ十歳の原点』の疼痛』(『砂のように眠る』所収)
『一九六九年に二十歳であること--『ニ十歳の原点』の疼痛』は、関川夏央さんの作品集、『砂のように眠る』に収められた短い批評文だ。(関川さんご本人は「評論」と呼んでるけど)
文庫版で25頁だけど、中身は濃い。
『ニ十歳の原点』は、立命館大学の大学生だった高野悦子さんの日記で。1969年6月に大学3年生だった彼女が、列車に投身自殺した2年後(1971年)に書籍として刊行された。
関川さんの『昭和時代回想』によれば、1960年代から1970年代のはじめには「二十歳そこそこで死んだ青年たちの遺稿集が多く出版された」そうだ。「樺美智子、岸上大作、大島みち子、奥浩平、高野悦子などである。病死した大島みち子を除くと、みな政治的行為に参加したことがある」と、続いてる。
『砂のように眠る』所収の批評文によると、高野悦子さんは、中学2年生の時から日記を書き継いでいたそうだ。
この日記は、実家が北関東にあった高野さんが、京都市内で暮らしてた下宿から発見されたと言う。
『二十歳の原点』は、1971年に刊行され、単行本だけで120万部以上売れたそうだ。1979年には文庫版が刊行されて、80万部以上が売られたそうで。
1974年には『二十歳の原点序章』が、1976年には『ニ十歳の原典ノート』が刊行されて、3冊の総計部数は300万部に達した、とのこと。
『二十歳の原点』は著者の死後ほぼ二年を経た一九七一年五月、新潮社から刊行された。
ひと目をひくタイトルだった。「原点」は当時の流行語だったが、すでに色褪せた印象があった。しかし、そこに「ニ十歳」とつけると、にわかに生彩を点じた。口絵にある著者のポートレートにも好感を持った。彼女はたしかに美人の仲間だった。痛々しいくらいに子供っぽかった。あんなふうな表情を持つ女子学生を、わたしは何人も身近に知っていた。
そこまではわたしも、つぎつぎと版を重ねさせた読者たちと同意見だった。
けれど、刊行当時「書店の平積みの棚で手にとって見た」関川さんは、ページをめくって目についた文章を「作文だ」と思った。文庫版では、この前後、1頁の2/3以上の分量で、日記からの引用が差し挟まれている。
それは死の九日前の日付の箇所からの引用で。
引用箇所の冒頭は、次のような文章で始められている。「安保条約は日米軍事同盟であり、反共を旗印にした米帝のアジア侵略支配政策の凝集したものである」。
引用箇所の末尾には、次のような文章が見られる。「いま、集会に行かず本を読んで自己の内部と対決するのと、今日の安保粉砕の集会に参加し行動するのとでは、どちらが私にとってよいことなのか、どちらが自己の質を高めるのか」
ページを繰る手はここでとまった。
これは作文だと思った。ニ、三年前こんな文章はいたるところのアジビラにしるしてあった。一九七一年にも残っていたが、多くは大学構内の風にむなしく飛ばされていた。「自己の内部と対決する」--このくだりを読んだとき、わたしは眉根にしわを寄せたまま、赤面した。著者があまりにもいたましく思え、本をそのまま棚に戻した。
そしてこのたび、二十年を経て読み直した。正確にははじめて精読した。すでに彼女の二倍あまり生きた身だから、多少の距離を置いて日記を眺めることができるようになってはいた。しかし、いたましさの思いはかわらなかった。
彼女を思いつめさせてしまったもの、彼女の精神の筋肉を硬くしこらせてしまったものはなんなのだろう。時代の空気だろうか。親離れの難しさと都会の孤独だろうか。
関川さんは、1949年(昭和ニ十四年)生まれ。高野悦子さんと同年の生まれだけど、高野さんは早生まれなので、学年で言うと、関川さんは高野さんの一つ下。ただし、高野さんが自殺した1969年には、関川さんは、大学を中退してたようだ。
『二十歳の原点』が刊行された今から30年以上前、新刊を手に取った関川さんを「赤面」させたのは、当時の大学の空気を自分なりに噛み砕かくことができずに綴られた作文だろう。
もっと端的に、全共闘のかもし出した雰囲気を消化しきれずに書かれた作文、と言ったら酷だろうか? 関川さんはそうは書いてはいないけど、高野さんが全共闘の運動に加わっていた、との言及はある。
ここでアタシ(紹介者)は、「全共闘」は意図としては無党派の抗議運動が目指された運動、あるいは流行だった事を特に書いておきたい。
無謀と言えば無謀な企図だし、それだけに全共闘の評価は、当然のごとく今でも様々だ。全共闘運動自体に混乱も少なくなかったようだし。評価が様々な事は致し方ない、と思う。
けれど、しばしばなされる「全共闘」と「全学連」の混同はよくない。
組織化された全学連と、組織化を避けようとした全共闘を混同するのがまともな評価に到る見方とは思えないからだ。
調べれば簡単にわかるはずの事なのに、時が過ぎると共に混同が甚だしくなっている気もする。
酷い場合は、連合赤軍など組織化された政治活動と、全共闘とを、「過激派」の名づけで、一からげに論じる言説すらある。
関川さんの『一九六九年に二十歳であること』は、高野悦子さんの日記から読み取れる生活と心理とを批評的に再構成した労作だし、分量も長くは無い。だから、全共闘についてはあまり多くが書かれていない。
ここでは、紹介者のこだわりで注記をしるした。
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「私は『主体性』という言葉をあまり好まない。主体性などと馬鹿の一つおぼえみたいに叫んでいるのをあざ笑う。空虚さがプンプンしている。それとおなじように『人民』人民としゃべりまくるのも嫌いだ」
上は、関川さんの批評文からの孫引きで、高野さんの日記、1969年2月4日からの引用だそうだ。自殺の4ヵ月ほど前に記された事になる。
「階級闘争あるのみ(ウソだなあ、どうしたってこれはウソだよ)」
こちらは、日記の1969年5月4日(自殺の1ヵ月ほど前)からの引用。
このまま自己相対化をすすめていったなら、やがて彼女は日記を書くことをやめたのではないか。日記に、しこった思いをひとり注ぎこまず、生きているものにだけ話して、この味のない時代をのりきったのではないか。
この、同年代の異性が自殺前に記した日記を、数十年たってから読み直した大人の感慨は、年代が違い、体験も違うアタシにも、わかる気がする。
これが、文芸の力、ってものよ。
あたしが感じる「わかる気」は、批評文も評伝も書く関川さんが日記を舐めるように精読して、ルポルタージュもノンフィクションも書く関川さんが日記の筆者の心理を日記自体から再構成してくれたから、いっそう腑に落ちる形になってる。
著者(関川)の感じただろう疼痛(うずくような痛み)も、想像できる気がする。
関川さんの批評文を読めば、誤解無いはずと思うけど。
『一九六九年に二十歳であること--『ニ十歳の原点』の疼痛』で、関川さんは単なる過去の追想記を書いたわけではない。関川さんが感じた疼痛は、疼痛として記されているけれど、単なる感傷としてまとめられてはいない。
また、『一九六九年に二十歳であること』は、単なる世代論でもない。世代論になりかねない論旨が、細かな分割検証を経て、世代を越えた読者にも響く論になっている。
そこが、いい。
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先に挙げた引用箇所で、関川さんは「彼女を思いつめさせてしまったもの、彼女の精神の筋肉を硬くしこらせてしまったものはなんなのだろう。時代の空気だろうか。親離れの難しさと都会の孤独だろうか」って問いを読者に提示している。
この問かけに対応する文は、批評文全体のエピローグと呼んでいい箇所の直前に記されている。
どの時代でも学生たちは精神を動揺させがちで、ときに投げやりな気分に陥りもするが、なにかの気晴らしによって危機を脱する。彼女の場合、めぐりあわせが悪かった。そして、やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった時代そのものに、秤を不運の方に傾けるわずかばかりの悪意があった。
実は、アタシ(紹介者)は、この問いかけと対になった箇所の内容には同意し難い点が無くも無い。
同意はし難いけれど、「一九六九年に二十歳」であった関川さんの感慨、あるいは証言として聞くべきものが多いと思ってる。
だから、「むかし『戦後』という時代があった」って、関川さんの歴史感覚に興味、関心を持つ方には、お勧めする。
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最後の引用箇所で、アタシが何に同意しがたいのか、覚書程度には記しておきたい。
大別3点、おそらく関連しているだろう疑問が、アタシには拭えない。
まず、「やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった時代そのものに、秤を不運の方に傾けるわずかばかりの悪意があった」。
「時代そのものに」わずかばかりとは言え「悪意があった」とは、何のことだろう?
今となっては、古風で、あまりにブンガク的と言わざるを得ない表現だ。
例えば「時代が悪意に満ちていたわけではないが、わずかばかりの悪意があった」とでも読んでいいのかしら? と、言うのは、「時代」なるものが悪意を抱いたり抱かなかったりするはずがないからだ。
悪意を抱くのは、人間や、人間集団であり、複数の人間や、複数の人間集団の関係で抱かれるのが悪意だからだ。
だから「時代は悪意に満ちていた」とか「その時代はわずかに悪意が漂っていた」なら、話はわかる。
けれど、関川さん自身が日記から引いたり、引用部分の内容を補強する意味でノンフィクション的に記した出来事から窺える「悪意」は、アタシは「わずかばかりの悪意」とは思えない。
正確に言うならこうだ。
アタシには、悪意の量を量的に比較することができるとは思えない。
「わずかばかりの悪意」は、もちろん文芸的な修辞だろう。そんな事、アタシにだってわかるし。関川さんのあげ足取りをするつもりも無い。
高野悦子さんが、自殺する前に体験した「むき出しの悪意」は、強いものだったはずだ、と思える。量を比較することには、修辞以上の意味は無い、とも。
つまり同じような悪意は今もあるし、多分、いつの時代にもあっただろうし、あり得る。けれど、量ではなく、強さで言えば、強い強度でむき出しにされた悪意に、彼女は直面した。
そのむき出しの悪意を、文芸的な修辞としても「不運の方に傾けるわずかばかりの悪意があった」とする纏めには、アタシは同意できない。
それから、「やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった時代」。
ここは、アタシは、騒々しい時代に立ち会った同時代人としての関川さんが、たいへんな労力を払ってものした証言に敬意を払う。つまり、嫌われがちな団塊世代の、類型的な愚痴や自慢話とは、内容が全然違う。
敬意は払うけど「時代」の総括としては同意し難い。
例えば、関川さん自身が、『一九六九年に二十歳であること』に記している、高野さんの次の行動はどうなのか?
1969年のことだ、高野さんは「授業料もまだ払い込んではいない。大学が誠意を見せるまでは払わない、と決意した」。ここで、1969年当時の立命館大学の管理体制にどういう問題があったか、「立命館の」学生たちの少なくない人数が、何に怒ってたを書く余裕はない。調べれば概要は掴める事だし、そんな事は、関川さんの方が詳しいはずでもある。
にもかかわらず、アタシは、「やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった」と、する関川さんの意見には、「時代の総括」としては同意し難い、と書いておきたい。
もし、そうだとしたら、あんまりに思えるからだ。
ある立場からは「やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった」としか思えない、って証言としては敬意を払います。
「時代」と言うより、70年代頃の全共闘の政治運動の総括としては、アタシは例えば高野悦子さん同様に全共闘に加わった橋爪大三郎さんが発言してる、政治的な抗議活動としては「未熟だった」との総括の方が、うなづける。
ただ、「未熟だった」の一言で全てをくくるとしたら、それはそれで、高野さんの自殺の痛ましさが、無かったことにもなりかねない。懸念はある。それもわかる。
時代とか、歴史とかは、一筋縄ではとらえ難い出来事だ。だからこそ関川さんも『砂のように眠る』を書いたのだろうと、アタシは思う。
なので、アタシは、『砂のように眠る』に敬意を払って全否定はしない。それでも同意し難い点はある。
けれど、このアタシの同意し難さについては、別の作文で探るべき話題だろう。それは『砂のように眠る』の全体を見ないと、まともに検討できない話題のはずだから。
「どの時代でも学生たちは精神を動揺させがちで、ときに投げやりな気分に陥りもするが、なにかの気晴らしによって危機を脱する」。
この部分には、ほとんど異論も異存も無い。
今現在も「動揺しがちな精神」は、もちろん「ときに投げやりな気分に陥りもする」。あたりまえよね。
けれど、今現在の「動揺しがちな精神」は、「なにかの気晴らしによって危機を脱する」とは限らない。
つまり、人によってそれぞれだけど「『なにかの』気晴らし」は、万人にとっては信頼しきれない。
なぜかと言うと、気晴らしの仕方すら、商品化され、メディアを通じて市場で誘導されるのが、今現在の産業化した社会だからだ。
いわゆる「早い資本」はとても洗練されているので、決して強制や管理はしない。ただ、巧妙に消費者であるアタシたちを、挑発しつつ誘導するだけだ。
これが、アタシも含めた今現在の「動揺しがちな精神」の関わるもんだいの形で、アタシたちと社会との間のもんだいの一端でもある。
これは、関川さんたちが、よく想定し得たもんだいではないかもしれない。それはわからないけど、むしろ、アタシたちの年代や、もっと若い年代のもんだいでしょう、と思える。
それでも、アタシは、関川さんの労作に、アタシたちの参考にもなるだろうものを感じる。なので、素直に敬意を払える。
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アタシの青春時代は、1980年頃を挟んだ時期だった。
もしかしたら、アタシが『一九六九年に二十歳であること--『ニ十歳の原点』の疼痛』の内容に価値を見出せるのは、1980年頃に青春を過ごしたアタシの体験と響きあうものが少なくないためかもしれない。
1970年頃の「騒々しさ」にはかなわなかったのだろうけど、1980年代初めの日本では、社会や生活の変動は、多分、変化の速度だけは1970年頃のそれに負けなかっただろうと思う。
例えば、24時間営業の営業形態も含めてコンビニエンスストアが全国的に広がった。コンビニエンスストアと大形店舗との挟撃が日本中の各地で、伝統的な商店街を追い込んでいった。
あるいは、24時間営業の営業形態も含めてファミリー・レストランが全国的に広がったのもあの頃の事だ。
24時間の営業が、日本人の生活に及ぼした影響は深く広かった。
速度が速かったのは、機が熟してたからだろう。
ちなみに、『一九六九年に二十歳であること』によれば、『二十歳の原点』や、関連書籍は「八〇年代後半からは売れ行きが衰えた」そうだ。「高野悦子のような悩みかたに青年たちは同情しなくなった」とすら書かれている。
実は、アタシも、『二十歳の原点』は読んでない。『一九六九年に二十歳であること』を読んだ今でも、もし『二十歳の原点』を読んだとしても「同情」を感じられるかどうか、自信は無い。
けれど、関川さんが批評文の形で表現した「疼痛」には、アタシよりも若い年代の人たちにも、年代ごとそれぞれに響きあう体験が、きっとあるだろう、と思います。
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書誌情報:
関川 夏央,『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』,新潮社,Tokyo,1993.
ISBN 4-10-387602-6
関川,『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』(新潮文庫),新潮社,Tokyo,1997.
ISBN 4-10-110714-9
関連書誌情報:
関川 夏央,『昭和時代回想』,日本放送出版協会,Tokyo,1993.
ISBN 4-14-005311-9
関川,『昭和時代回想』(集英社文庫),集英社,Tokyo,2002.
ISBN 4-08-747524-7
高野悦子さんの『ニ十歳の原点』、『ニ十歳の原点ノート』については、書誌情報未詳
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