桶狭間とご都合主義

 私の書いている小説は、基本的にパターンが同じである。
 つまり
「数の上でも質の上でも圧倒的に不利な立場に置かれた主人公が、圧倒的な数と質を兼ね備えた敵に、負けない」
 ……という物語である。

 勘違いしないでもらいたいのは「勝つ物語」ではなく「負けない物語」である、という点である。
 作家は、いくらでも自由に物語を作れるとはいえ、さすがにそういった条件では勝利することはまず無理である。私は、勝利する事はできなくとも、なんとかして「負けない」というあたりに条件を下げて、圧倒的戦力差のある敵の攻撃を「凌ぐ」話が好きなのだ。

 常識で考えている読者の方が「絶対にありえない」と思われるシチュエーションを。事前に提示し、その「ありえないシチュエーション」をアイディアと物語の流れで、なんとか「あるかもしれない」と思わせるのが好きなのだ。

 こう言った物語をずっと書いていると、常に「ご都合主義」という批判にさらされる事になる。
 作者がありえないことを、ありえるようにするために、物事を都合がいいように捻じ曲げている……と言う批判である。

 この批判を受けるたびに、私の脳裏に一つ思い浮かべる思い出がある。

 何年か前のことだが、とある席で、私は自称・軍事専門家と名乗る方から、ねちねちと文句を言われた事がある。
 彼の論旨は要するに私の書く物語は、設定もキャラクターの動きも考えもすべて、作者がご都合主義的に作ったものである。というものだった。
 つまり、現実において、あのような「少数の戦力が、戦術で多数の戦力を圧倒し、戦力の差をひっくり返す」ということはありえない。
 戦史を勉強している私から見れば、問題外の子供騙しである。、
 ……というようなことを言われたわけである。

 私が、にっこり笑って「では、織田信長今川義元を破った桶狭間の戦いはどうなりますかね?」と聞いたところ、その自称・軍事専門家氏は、黙り込んだ後で、吐き捨てるように、こうお答えになった。
「桶狭間の戦いなんて、あんなのは嘘ですよ」

 まあ、実際に見てきたわけでもないので「あれは嘘だ」と言われても、私には「本当だ」と言う資格は無いのだが、彼の言いたいことはよくわかる。

 常識で考えれば、誰がどう見ても、あの織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いは「嘘だろう」としか言いようが無いのである。
 
 桶狭間の戦いは、大軍を擁する指揮官が「都合よく慢心」し「都合よく天候が急変」し「都合よく休憩」したところにこれまた「都合よく少数の側が奇襲を仕掛けることに成功」するのである。

 それはすべて「偶然の一致」なのだ。
 そんな都合のいい「偶然の一致はありえない」と言われても、実際に、その事実は存在し、嘘でもなんでもない史実として認識されているのである。

 もし、桶狭間の戦いが失敗に終わっていたとしたら、当然現代に桶狭間の戦いは伝わっていない。歴史も大きく変わっていただろう。
 そして、それより何より、もしも今、あの桶狭間の戦いと同じようなシチュエーションで戦いが展開する物語を書いたらおそらく読んだ人から
「こんな、偶然の一致ばかりで話がうまく進むご都合主義の話は読む価値は無い! ありえない!」と、叩かれまくる事だろう。

 だが、人類の歴史と言うのは、いかに「偶然の一致」で動いているのか、ということは、調べれば調べるほどわかってくる。
  
 人間と言うのは、そんなに先が読めるわけでもないし、洞察力がある生き物ではないのである。
 実に重要な決断を、考える事も無く簡単にやってしまったり、考えていても、情報が不足しているために。後から考えれば馬鹿としか言いようのない誤った決断をすることは、日常茶飯事である。

「常識で考えれば、すぐにわかることを」とか
「そんなことを考えるわけがない」とか

 それはすべて、結果を知っている、つまり後知恵がついているがゆえに言えることであり、その時、その場面にした当事者からすれば、その判断こそが「常識」であり「そう考えるのが当たり前」なのである。

 先人の過ちを、知ったような顔で指摘する事の愚かさは「下衆の知恵は後から」という言葉でもわかるとおり、誰にでもできることであり、別に偉くもなんともないのだ.

 世の中に偶然の一致はめったにない、だが、その「めったにない」ことだからこそ面白いのである。
 だからこそ、私はその「めったにないこと」を物語で再現しているわけである。
 その、「めったにない」ことを「ありえない」と言う人は、どんな物語を望んでいるのだろう?
 「常識ではありえないこと」は何一つ起こらずに、普通の出来事が淡々と続き、誰もが「常識で考え」正しい選択肢だけを選んでいく物語の方が面白いのだろうか?

 「桶狭間なんか嘘ですよ」と言う人にとっては、きっと、そういう物語のほうが納得できるし、面白いのだろう。

 そう考えると、私の書いているような物語が、曲がりなりにも受け入れてもらえている理由の一つは「織田信長が桶狭間で勝った」からだ、と言うことができるかもしれない。

 織田信長は私の恩人である(w

桶狭間の戦いを奇襲にした要因と、信長の意図について

 桶狭間の戦いについて
「あんなのは、嘘です」 と言うとしたら、私でしたらたぶん、
「あんな(結果になると、信長が意図していたとしたら)のは、嘘です」 となりますかね。

 桶狭間の戦いの奇襲というのは、ミッドウェイにおける奇襲、あるいはハワイ真珠湾攻撃における奇襲と良く似ていると思います。

 一見すると、どちらも「相手の存在を(物理的に)感知できなかったから奇襲された」という、ハイドインシャドウでバックスタブで+4という感じですが。
 実のところ、情報としては敵がいて、攻撃の予兆もあったわけです。

 でも、「まさか、こんなところに」「まさか、こっちに攻めてくるはずが」という先入観、思いこみという心理的陥穽が、ちょっとした不意打ちを本当の意味での奇襲にしたのだと私は思っています。

 桶狭間での信長の意図は、今川義元のクビなどではなかったはずです。
 今川軍は織田軍よりも優勢です。時間をかけて動員を行い、兵糧を運び、ということをやっているわけですから信長はそこは心得ていたでしょう。

 では、今川義元はなぜ2倍強もの大軍を用意したのか?

「俺と、戦わないためだ」

 信長の結論は戦国時代としては当たり前です。数をそろえて、敵を威圧してそれにより信長の動きを封じる。そして、その武力を背景に、今は織田側についている周辺の土豪たちを調略して今川側につかせ、政治的にも勝利する。

「とすると、向こうはこちらが粘って時間稼ぎをすると想定しているだろう」

 今川側の城を囲む形で、信長は砦を築いています。義元が調略を成功させるには、まず砦を落として城を軍事的拠点として使えるようにし、その武威を示さねばなりません。
 逆に言えば、信長側の砦が落ちないと始まらないので、序盤で力を入れて攻めるでしょう。

「義元が恐れているのは、俺が砦を支援して戦いが長引き、損害が増えることだ。だからやつは砦の攻略にできるだけの戦力を割く」

 信長は幾通りもの戦い方を分析し、計算します。その中には、今川義元が想定しているような、信長が主力軍を使って砦を支援する戦い方もあったでしょう。

「だめだ……これでは、やつらに勝てない」

 相手の想定している通りの動きをしたのでは、いくら奮戦しても最後には純粋に数の差で勝敗が決まります。
 ならば、義元が想定していない戦い方をするしかありません。

 戦うつもりのない、今川義元の本軍。
 圧倒的に有利とはいえ、砦の攻略に兵を分散している以上、今川義元の率いる本軍の数は決して多くはないはずです。
 これに、信長の自由にできる機動野戦軍を集中してぶつける。

「正面から戦えばそれでも不利だが……うまくやれば、不意を打てる」

 何千もの兵がぞろぞろ移動するわけですから、物理的に見つからずに義元のところまでたどりつけるとは、信長は想像すらしなかったでしょう。

 ですが、義元は信長の軍勢の情報を知ってどう思うか?
 想定した通り、攻撃されている砦を支援する部隊だと思うはずです。
 その心理的な陥穽をつくことができれば、心理的、物理的に準備ができていない今川軍を、どちらも準備万端の信長軍が不意打ちで攻撃できます。

「まあ、うまくいくかどうかはやってみないと分からんが……これが一番、勝てる可能性が高そうだな」

 後は一にも二にもタイミングです。
 砦の攻略で今川軍が分散しているタイミングをつくことができれば。
 砦が落ちたとしても、今川義元の率いる本軍を撃破したという武勲があれば、動揺する織田側の土豪への政治的なアピールとして使えます。
 決して織田は負けたままではいない。大国の今川相手にも、それなりに善戦できると。

「それにひょっとしたら、乱戦に持ち込めば義元を討ち取ることだって、できるかも知れない……くっくっく。そいつは高望みがすぎるというものか」

 桶狭間の戦いというのは、こんな風にして始まったのではないかと思っています。

「偶然」とどう向き合うか。

 桶狭間の戦いは、織田側が実にタイミングがいいところで、戦いを仕掛けたという「タイミングの勝利」であることは、間違いないのでして、その「タイミング」がきっちり重なったから、勝利できて、歴史に名が残ったわけですが……。

 ひっくり返して言えば、タイミングが合わずに勝利できなかった「桶狭間」が忘れ去られた歴史の中に山ほどある、ということでもあるわけです。

 では、どうして織田信長がそれに成功し、他の人間が成功しなかったのか。理由は色々あると思うのですが、でも、そうやって思いつく理由のほとんどは「後出しじゃんけん」のようなもので、重要なファクターではないと思うのです。

 そうやって考えて見ると、やはり最後にたどりつくのは「偶然」という一言につきるわけです。
 そして、世の中にはこの「偶然」を嫌う人が多いのも事実ですな。(w

 それはまあ、当然のことでして、なんでもかんでも「偶然」のせいにしてしまえば、世の中は回っていかないわけで、何か物事が動くにはすべて「必然」というか理由が必要なわけで、実際物事の99%は必然です。
 でもまあ、宝くじが当たるためには「くじを買う」以外の理由は無いわけで、それ以外の必然は存在しないのですな。当たるのは「偶然」なわけです(w

 この偶然というのは、人間の力とか努力とかの及ばない「何か」なわけでして、これがある、というのは実に不安を掻き立てられることなわけです
 
 いくら努力してもがんばっても「偶然」ダメになってしまうかもしれない。
 いくら努力して幸せをつかんでも「偶然」死んでしまうかもしれない。

こういったことを「そういうこともある」と受け入れる事ができるほどに枯れていない人にとって「偶然」で物事が決まる物語は、不安を掻きたてられるものなのかもしれません。

 確かに世の中の99%は必然であり、その必然的な努力の果てに「偶然」の勝機が訪れるわけですが、たとえそれが世の中の事実であっても、それを物語にして見せられたときに「ご都合主義」と言う言葉を投げつける人間の多くが若者である理由は、そのあたりにあるのかもしれません。

「偶然」を「必然」とする長谷川漫画の手法

 「ご都合主義」と非難したくなる、あるいは
 「いやいや、それはラッキーにもほどがあるだろう」とツッコミを入れたくなる時というのは、どんな作品かちょいと考えてみました。

 私の場合は、「うまくいかなかった時にどうするんだ、おまいは」と言いたくなる作品でしょうか。

 偶然が作用してうまくいく例は、偶然によってうまくいかない場合もあります。

 もしもうまくいかなかった場合に、対応できるキャラ、あるいは作戦ならば、どれだけ偶然が味方して勝利したとしても、私としては文句はありません。

 たとえば、今日大量に更新したブログの読書例でいいますと、『風の聖痕』の主人公である和麻です。偶然が味方して勝利しても私は文句ありません。和麻(の中の人)は明らかにベテランゲーマーです。サイコロの出目が悪くて攻撃が失敗しても、彼ならば次の手を準備してあるでしょう。

 一方で、『反逆者の月』の主人公がそのようなことをしたら、「この運のし(運だけ)野郎」と文句をつけたくなるでしょう。部下はけっこうベテランゲーマーぞろいですが、彼自身は序盤の展開を読むかぎりでは、かなりダメです。打った手がうまくいかなかった時に、リカバリをろくにできずに窮地に追い込まれていますから。

 このように主人公のそれまでの行動が、「偶然」を「都合がいい」か「それもまた必然」ととらえるかの違いにつながっているかと思います。

 そして、多くの読者が納得できるタイプの「偶然」というか「作者の都合」を演出しているのが、今日の例でいうと長谷川裕一さんの主人公ではないかと思います。

 長谷川さんの主人公は勝機が訪れるまで、とことん耐え抜きます。ロボットや身体がぼろぼろになって、何度も死にかけるほどに耐えて耐えて、そして勝機を見いだして逆転します。

 もちろんここにも「偶然」というか、「作者の都合」ははいっています。勝機が訪れるまで、死なない/負けないのです。装甲がけしとび、ロボットの手足が折れ、コクピット内部までダメージが通ったとしても、主人公は死にません。
 明らかに「偶然」をこえた「作者の都合」がそこにありますが、おそらくこれがダメな人はあまりいないでしょう。

 高倉健さんのヤクザ映画のように、耐えて耐えて耐えて耐え抜いて、ゲージを溜めて溜めて溜めて溜めてマックスまで持ち上げていく展開は、表面的には主人公の苦戦ですから、「作者の都合」で恩寵を受けているという印象を大幅にカットすることができるわけですね。

 耐え抜いた末に訪れる勝機は、もはや偶然ではなく必然です。
 主人公と一緒にゲージをためまくった読者も、共に「そ・こ・だーっ!」と絶叫しながら勝利するのですよ。

ご都合主義という批判に対する素朴な疑問(w

 この素朴な疑問とは、どうして、主人公たちが不利になるような戦い方については「ご都合主義」と言う批判が向けられないのだろう? というものです。
 「ご都合主義」という批判が向けられる対象は、大概が主人公が「勝つ戦い」についてです。
 銅氏が指摘したように、物語のパターンとして、長谷川裕一氏のマンガとか、高倉健さんのヤクザ映画のように、主人公が「一方的にやられる展開」がよくあります。
 これも、いわば「作者の都合」なわけですね。つまり、その後の逆転を演出するために、わざと負けている。というか「勝てない状況」を作り出しているわけです。
 「ご都合主義」という言葉の意味が「作者の都合がいいように物語を作り上げること」を
指すのならば、こういった、いわば主人公の負け戦も、間違いなくご都合主義なわけです。
 でも、なぜかそういった状況を作り出すことに対して、これはご都合主義だ!。と批判を浴びせる人はいません。
 物語というのは、作者の創作物ですから、当然作者の考えた都合で進んで行くわけで、そうではない物語はありえないのではないかと思います。
 つまりは、すべての物語は作者の都合で紡がれるものであり、ご都合主義ではない物語は存在しないわけです。
 ようは、その「作者の都合」を許せるか許せないか。という、その点だけが問題なのではないかと思うのです

 その理由は、簡単に言ってしまえば「人間は誰も他人が勝つ光景なんか見たくない」ということに尽きるのかもしれません。
 自分が勝つことは許しても、他人が勝つのは許せないから、なのではないでしょうか?(w

 つまりは、読者が主人公に感情移入できるかできないか、そのことがすべての原因なのかもしれません。
 主人公の境遇に共感を感じ、自分の分身、もしくは親しい仲間のように思えれば、その主人公が勝つことを許せます。しかし、主人公に感情移入できない、共感を感じない、仲間のようにも思えないとしたら、その主人公が「勝つ」ことは許せないのです。

 だとすれば、よくある「ご都合主義批判」が浴びせられる原因は、その物語の設定や説得力にあるのではなく、読者がその主人公に共感できなかったということが原因であるのかもしれません。

 許せる人にとっては、その「作者の都合」は瑕疵ではない。
 許せない人にとっては、その「作者の都合」は物語が成立しないほどの瑕疵である。

 それを決めるのは、読者の価値観であって、読者一人一人の基準が違うわけです。
 たとえば、幼児的な感性の持ち主がいて、投影できる自己のモデルが狭い人が、物語を読めば、当然主人公に対する感情移入の度合いは低くなります。
 いわゆる「嫉妬深い人」とか「わがままな人」は、他人がいい思いをしたり、称賛されている光景を見ただけで、それを自己に対する攻撃と取ります。
 こういった価値観の人間が、物語を読んだとします。その人が、物語の主人公に共感を感じないとしたら、主人公が成功する、つまり勝つ物語は、それだけで不愉快でしょう。
 
「こんなに上手く行くわけが無い、こんなのは作者のご都合主義だ」という批判になるのは無理も無いことだと思います。

 ですから、こういう人に、いくら設定とか、過去の事例を示して「いやそういうこともありえるんだよ」と言っても、それは納得できないでしょう。
「桶狭間は嘘だ」ということになるわけです(w

 人間は感情の動物ですから、何よりもまず感情を納得させなくてはなりません。
 つまり「偶然」を「必然」にする、負け描写の積み重ねとは、嫉妬深く猜疑心の強い読者でも、納得させることのできる処方箋なのかもしれません。(w 

読者はどんなキャラに共感するか

 気に入らない論者による論説は、それだけで批判的な視点で読んでしまいます。
 気に入らない新聞に書かれた記事は、それだけであら探しの対象となってしまいます。

 そして同様に。
 気に入らない主人公に与えられた物語は、それだけで不満の対象となるものです。

 では、気に入らない主人公、つまり共感できない主人公がいたとして。
 果たしてそれは、どこに原因があり、どうすればいいのでしょうか。

 共感とは、「うんうん、わかるわかる」という気持ちです。
 これは明白に白黒つく感覚ではなく、「いや、それはないだろう」「そこは違うだろう」というのが増えていけば、共感は減ります。

 たとえば私は谷甲州さんの大ファンですが、登場人物が見せるストイックさに関しては、「いやいや、それはないだろう」と共感が減ることがしばしばあります。
 その一方で、喉が渇いたり披露困憊したりした後で飲む水の美味さとかには、「あるある。山登りであったなぁ」と共感を増やしています。

 この例は、読者、つまり私の経験や性行が影響しています。私は享楽的な人間なので、ストイックな登場人物に共感できません。が、大学時代に山登りをしているので、いっぱいの水の美味さ、舐めた塩で生き返る感覚は大いに共感できます。

 また、シリーズ物などで途中でキャラが変わることへの違和感が共感を減少させる例もあります。……あるよね?

 たとえば『魁!!男塾』のように品行下劣な敵が頼もしい味方に変わる場合は……あまり気にしなくていいでしょう。アレはそういうモノだという前提が読者にはあります。

 あるいは『機甲猟兵メロウリンク』のキーク・キャラダインは……ああ、これも問題ないというか、むしろカッコいい例なので置いておきましょう。

 何かないかな……おお、あった。

 『超鋼女セーラ』の主人公である茸味くん。
 彼はヒロインであるセーラとその気持ちへ真摯に対応する良い少年です。が、オープニングと本編を読むと、どこかキャラが違っています。オープニングでは下心や計算高さもある、いわゆる普通の少年です。これがセーラに愛の告白をされてからというもの、どこか精神面で突き抜けたキャラへと変化しています。
 さほど問題のある描写ではありませんが、私がこの作品を布教しようと読ませた友人は、そこが気になって共感を疎外されたと指摘しました。

 いずれにせよ、読者の中にある「主人公/ヒロイン/仲間/敵とはこういうものだ」というモデルにあてはまらない言動は共感を減少させ、そのモデルにあてはまる場合は共感を増進させるわけです。

 キャラクターのモデルそのものは多種多様ですし、それが読者ひとりひとりに合うか合わないかは書き手にはどうにもならない部分でしょう。
 ただ、無用な誤解や摩擦を避けるのであれば、キャラクターモデルを誤解されないようにする、というのが重要かと思います。

 「このヒロインは主人公に対して文句ばかり言うからツンデレかと思っていて、いつデレになるか期待しながら読んでいたら、本当に主人公のことをゴキブリのごとく嫌っていただけだった」

 とかだと、読者にとって致命傷になりかねませぬ。

楽しめる人と楽しめない人

 そうやって考えて見ると、小説にしろ映画にしろ、およそこの世に存在する物語の価値は「どれだけ共感できる受け取り手を確保できるか」ということになるのだと思います。
 物語の展開も設定も、それらの説得力も、要するに「共感を得る」ことができて、初めて成立するわけで、共感を得られない物語は、読者にとって価値が無いわけです。
 
 では、その共感を得るにはどうすればいいのか。

 これに答えは無いのかもしれません。
 物語を受取る相手は、一人一人すべて価値観が違います。
 生きてきた時間も経験も、観察力も感受性も、すべてが違うわけです。そしてすべての受け取り手が「自分が正しい」と思い込んでいるわけですから。(w
 つまり、それだけ多種多様な相手の「共通項」を網羅して、共感を得ることのできる物語を書こうと思うこと自体が、そもそも無理なのだと思うのです。

 ゴジラの映画を見て、喜んでいる観客に向かって
「あの中には人が入っているんだぞ、お前らあの不自然な動きに気がつかないのか、お前らは馬鹿か?」
 とか、水戸黄門を見て喜んでいる人に向かって
「これは、とんでもない嘘だぞ、水戸黄門なんてのは存在しないんだ、諸国漫遊なんかやったないいだぞ、そんなものを喜んで見ているお前らは馬鹿か?」
 とか、言いたがる人は、いつの世にもいます。
 
 でも、いくら言われても、ゴジラ映画が好きな人はゴジラ映画を見るでしょうし、水戸黄門が好きな人は水戸黄門を見続けるわけです。

 つまりは、物語を楽しむつもりの無い人が言い立てる「瑕疵」や「欠陥」は、物語を楽しんでいる人にとっては「大きなお世話」でしかないわけでして(w

 物語を創りだす人間は、一人でも多くの受取り手の共感を得るために努力しなくてはならないのと同時に、共感を得られなかった受取り手からの、否定と非難を浴びることを覚悟しなくてはならないということなのかもしれません。
 
 そして、たとえ「共感できない人」がなんと言おうと「共感できた人」が一定数以上いれば、その人が創作した物語は商売になるわけです。

「手垢のついた」「ありきたりな」「ご都合主義のカタマリのような」「陳腐で」「どうしようもない」
 レビューにそういった批判の単語が並べられた物語の方が、えてして売れるし、続いていく理由は、そのあたりにあるような気がします。

 実にありきたりな結論に落ち着いてしまいましたが、世の中の物事なんてのは、突き詰めると実に単純なことなのかもしれません。

 
 

共感を損なうもの

 読み手、受け手にとって共感が全然、これっぽっちも、かけらさえ得られない作品には価値がありません。
 もっとも、そこまで極端なものはほとんどないでしょう。逆に、すべてに共感が得られる作品もまた、めぐりあうのは至難の業です。

 そして中途半端に共感が得られるのに、反感もまた感じるとなると、これがもう痛し痒しで。

「この場面展開や演出には魂がふるえるほどに感動(共感)できるのに、腐れ主人公のせいですべてが台無しにっ!」

 とかになると誰を恨めばいいのやら。
 そうした不平不満が創作の原動力になっている面もあるのですが、読み手の事を考えると、この手の恨み辛みは精神衛生上あまりよろしくないでしょう。

 そこで、共感を得る、という部分ではなく共感を損なう、という部分について考えてみます。

 時代劇を見ていて共感を損なう部分というと、うっかり八兵衛

「ご隠居、この旅籠は“サービス”がいいですねっ!」

 などと、得意のうっかりぶりを発揮する……のはテレビの『水戸黄門』ならば問題ないですが、やはり、時代劇らしからぬ台詞回しなどがあれば、違和感が生まれ、共感を損ないます。

 読み手、受け手の中にはそれなりのルールや約束があります。性向や経験からルールの内容は違います。
 水戸光圀は副将軍でもなければ、諸国も漫遊していないからそんなねつ造作品には共感が抱けない、というのはその人なりのルールです。
 あるいは、立ち回り部分。日本刀はすぐに脂がつき刃こぼれをするから何人も切り結ぶことはできないから一対多数の剣戟に共感を抱けない。あるいはそこは気にならないが剣豪曰く、三対一なら逃げて一対一ずつ戦うべきなので、囲まれたままの戦闘場面は気に入らない――などというのも、よく聞く話です。

 というか、私がかつてたどった道であります。

 こうした、他人からは難癖と言われるたぐいのルールや約束に違反するので共感を損なう、というのは作り手からするとどうしようもありません。

 ちなみに、今年中学生になった我が甥もこうした小生意気な知恵のつく年頃らしく、妹と一緒に『魔法少女リリカルなのはA's』を見ながら

「敵は、なのはが変身している場面で攻撃すればいいのに」

 などと賢しげなコトをぬかしておりました。
 ちなみに私はむしろ、「変身シーンで敵からの攻撃うんぬんを子供に指摘される魔法少女アニメというのはどーなのだろうか」などといらぬことを考えておりましたが。

 閑話休題。

 こうしてみると、共感を損なうというのは、スジが通らない、つじつまが合わない、間違っている、などが原因になっているようです。
 本当に間違っているかどうか、というよりは読み手、受け手にとって間違っているかどうか、というのが大きくはあるのですが、ここに書き手、作り手が留意してもいい箇所があると思います。

 前に書いたことと矛盾、あるいは否定するようなことを書かない、という点において。

 人型巨大ロボット兵器は戦車よりも強い、ということを書いておいて。別の場面で姿勢が高くて関節など脆い部分が多い巨大ロボットは戦車で容易に撃破できる、と書いたのでは読者としてはどっちだよ、となります。

 あるいは、ヒロインのひとりが主人公を好きだという描写があった後で、一時の気の迷いでした、と書かれていたのでは、それはそれでリアルかも知れませんがそんなリアルは困るなぁ、となってもおかしくありません。

 はたまた、へたれ主人公が苦難の末に力強く立ち上がった次の巻で、居酒屋でアル中になってクダを巻いていたのでは、読者がつきあいきれなくなっても無理はないでしょう。

 あるいは、それらはすべて計算された演出で、後の部分も全部読めば納得のいくような作りになっているかも知れません。
 ですが、それは読者が途中で放り出したり、読むのをやめたりしない場合でのみ有効な手法です。また、後でツジツマが合ったとしても一度感じた違和感や損なわれた共感を取り戻すことができなければ、全体としてはマイナスの方が大きいでしょう。

 お手軽に場面を盛り上げようと入れたいらぬ演出や台詞が、読者の共感を損なう危険は、けっこうあるのではないかと思います。


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