橋場日月


キーワード一覧[橋場日月]からも、さらなる関連情報が辿れます。


『豊臣朝臣徳川家康』(橋場日月/『歴史群像No.92』より)に見る、戦国延長ゲームとしての『汝は人狼なりや?』

 『歴史群像No.92』の橋場日月さんの『豊臣朝臣徳川家康』は、前に橋場さんが『誤算と失策の関ヶ原』でも書かれていた、秀吉亡き後もまだ血に飢えた戦国武将たちの恩賞を求める気持ちが、関ヶ原への流れを作ったという視点で書かれた記事である。

 天下人であった豊臣秀吉が死んだのは1598年のことだ。
 本能寺の変があったのが、1582年。16年前。
 北条討伐をして、東北の仕置きもすませ、実質的に天下を統一したのが1590年。8年前。

『センゴク外伝 桶狭間戦記 1』宮下英樹 実は有能だった(らしい)今川義元の復権なるかの戦国漫画

 後世に残る評価という点で、今川義元はたいそう不運な武将である。
 まず彼は、戦国時代のヒーロー、織田信長に敗北した。以後、信長が大躍進したのは、今川義元を打ち破り、今川家という大敵を葬り去ったおかげである。
 続いて今川義元の敗北と戦死により、本来ならば太原雪斎の後を継いで今川家を支える武将となるはずの松平元康が独立し、後には徳川家康として江戸幕府を開く戦国の最終勝者になってしまった。家康が主家を裏切った点は、戦国時代という背景を考えれば非難される要素はまるでないのだが、残念ながら江戸時代という平和な時代にあってはそのような理屈を許すわけには政治的にいかないのである。よって、アレは裏切りではなかったとか、あまり触れない方がいいじゃんかとかの理由で、今川義元を評価しない、あるいは無視する流れができてしまったのだ。

『再考 桶狭間合戦』橋場日月(『歴史群像87号』) なぜ今川義元は討ち死にしたのか

再考 桶狭間合戦橋場日月(『歴史群像87号』) なぜ今川義元は討ち死にしたのか

 『桶狭間の合戦』について私が最初に触れた記述は 小学校の図書室にあった『まんが日本の歴史』だったと思う。
 勝利の前祝いにうかれた今川義元が、風雨をついて行われた織田信長の奇襲攻撃によって敗死する展開であった。

 さて、それから三十有余年が経過した。
 今では、今川義元がそれなりに有能な武将であり、決して油断していたわけでもなければ、織田信長が奇術師ヤンのごとき奇計を使って今川軍を翻弄したわけでもないという考察が一般的である。


以上の他にも、キーワード一覧[橋場日月]からも、さらなる関連情報が辿れます。


以下のアイコンから、このキーワードについての記事の新着をRSSで取得できます。別途Drupal.cre.jp全体のRSSもあります。

コンテンツのシンジケート このキーワードでの記事のみのRSS
コンテンツのシンジケート この階層以下の全ての記事のRSS。 階層以下全表示は橋場日月 - All


この記事をブックマーク

人気コンテンツ